文献

文献

当サイトの日本語訳について

呉越に関連する文献の日本語訳を掲載しています。
X(旧ツイッター)で訳しているものをまとめたものです。
基本的に、四部叢刊本を使用しています。

以下の点につきご了承ください。

・内容は随時修正を行っております。決定稿ではございません。

・訳の間違いについては、白川の訳し方に問題がある場合と、原典自体がそもそもおかしい場合があります。
重要な用途に用いられる場合は、必ず原典をご確認ください。

・こちらを参考にして生じた問題については、一切の責任を負いかねます。

参考資料

三民書局
「新譯呉越春秋」黃仁生注譯 李振興校閲 1996
「新譯國語読本」易中天注譯 侯迺慧校閲 1995(2013修正二版三刷)
「新譯越絶書」劉建國校譯 黃俊郎校閲 1997

中華書局
「越絶書校釋」李步嘉校釋 2013

岳麓書社
「呉越春秋校注」張覚校注 2006

明治書院
「新釈漢文大系 国語 下」大野峻著 1978
越絶書

越絶書

越絶外伝本事第一

問うて曰く
「どうして越絶という書名なのか」
「”越”は、国の氏である」
「どうしてそう言えるのか」
「『春秋』が斉・魯を叙述するのを按ずるに、みな国名を(諸侯の)氏姓としている。これによって(”越”が越国王の氏を表していることは)明らかである。”絶”は、優れているという意味である。句踐の時を言うのである。このとき、斉がまさに魯を討とうとし、孔子はこれを恥とし、そこで子貢は斉に説いて魯を安んじた。子貢が一たび出向くと、斉を乱し、呉を破り、晋を興し、越を強くした。その後の賢者や弁士は、孔子が『春秋』を作ったが呉越のことを省略したのを見、また子貢が聖人(孔子)と互いに疎遠でなく、唇と歯、表と裏のようであるのを見て、その意を要察し、史書を閲覧してそのことを述べたのだと思われる」
問うて言った
「どうして『越経』『越書』『越記』と称さずに、『越絶』と言うのか」
答えて言った
「そうは言わない。絶とは優れているという意味である。句踐の時代、天子は微弱であり、諸侯は皆叛いた。そこで句踐は強きを抑え弱きを助け、悪を絶やしこれを善に返した。道義によって取捨し、沛は宋に帰し、浮陵を楚に付し、臨沂・開陽は魯に復した。中国の侵伐は、これによって衰え止んだ。その誠が内にあり、威勢を外に発することで、越はその功を専らにした。故に『越絶』というのである。ゆえにこの作者は、(句踐が)内には自ら約やかにし、外には人を超越したことを貴んだ。賢者が述べるにあたり、(句踐の業績から)「絶」を切り離すことはできず、ゆえに「記」としなかったことは明らかである。
問うて言った
「桓公は諸侯を集め合わせ、天下を一つにただし治め、賢者を任用し、強国の楚を誅伐して服従させた。どうして『齊絶』と言わないのか」
答えて言った
「桓公は中国の人物である。兵強く世に覇して後、威は諸侯を凌ぎ、強国の楚を服従させた、これは当然というのみである。越王句踐は東の辺境海浜で、夷狄で文身し、自ら苦しみ、賢臣を任用し、死を転じて生となし、敗をもって成となした。越は強国の呉を伐ち、周室を尊び仕え、琅邪に覇業を行い、自ら倹約し、諸侯を率い導いた。微少から始まり、ついに覇業を成すことができたのを貴び、故に越がその功を専らにし有したのを喜んだのである。
問うて言った
「しかし、越がその功を専らにしていたのに、どうして第一ではなく、最終的に呉太伯から始めたのか」
答えて言った
「越が小で呉が大だからである」
「越が小で呉が大とはどういうことか」
曰く
「呉は子胥の教えがあり、世に覇すること甚だ長かった。北は斉・楚をしのぎ、諸侯には敢えて刃向かうものはなく、驂乗して、薛・許・邾・婁・莒は車に寄り添って走り、越王句踐は切り刻んだまぐさをあつめて馬を養った。諸侯がこれに従うこと、果中の李のようであった。国に帰って七年、思いを焦がし身を苦しめ、克己して自ら責め、賢人を任用した。越は強国の呉を伐ち、諸侯に覇を行った。故に越を第一としなかったのは、大国の呉を貶め、弱国の越の功績を明らかにしようとしたのである。
問うて曰く
「呉が滅び越が興った理由は、天にあるのか、人にあるのか」
「皆人にある。夫差は道を失い、越はまた賢であった。湿は雨に変わり、飢餓は援助に変わる」
曰く
「どうしてただ人だけにあるとわかるのか」
「子貢は夫子と坐し、夫子に告げて言った『太宰が死にました』夫子は言った『死んではいない』このようにすることが二回であった。子貢は再拝して問うた『どうしてわかるのですか』夫子は言った『天が太宰伯嚭を生んだのは、呉を滅ぼそうとしたからである。呉は、今まだ滅んでいない。太宰に何の病があろうか』その後、人が来て死んでいないと言った。聖人は妄言をしない。このことから明らかに越の覇業を知っていたのである」
「どうしてそう言えるのか」
答えて言った
「文種が范蠡に会ったとき、共に道を謀った。『東南に覇業の兆しがある。行って仕えるのがよい』共に東方に遊び、越に入ってとどまった。賢人は妄言しない。これによってわかるのである」
問うて曰く
「越絶は誰が作ったのか」
「呉越の賢者が作ったのである。当時、夫子が『尚書』を選定し『春秋』を作り、王制を定めたのを見て、賢者は感嘆し、意を決して史書を閲覧して、事を成し遂げたのである」
問うて曰く
「事をなしたら自ら名前を著そうとするものなのに、今ただ賢者といい、姓名を言わないのはどうしてか」
答えて言った
「この人には大雅の才があったが、ただ一国のことを語り、姓名が見られないのは、これを小事だとした辞である。あるいは子貢が作ったともされるが、まさに記述内容は四方に行き渡っていたはずであり、ただ呉越のみであるべきではなかった。記述が呉越のことであるのも、また理由があった。この時子貢は魯の使者となり、あるときは斉に至り、あるときは呉に至った。その後、事を語るのに呉越をもって喩えとなし、国人が記述を承け、ゆえにただ記述が呉越のことにあるのである。当時、聖人(孔子)は六芸を教授し、五経を刪定し、七十二賢人がおり、学徒三千を養い、魯の闕門で学問を講習した。越絶は小芸の文であり、固より四方に行き渡るに値しない。先聖賢者について記述した者が、作ったものが自ら称し姓名を列記するに足らないのであれば、どうして自分を指すに値するだろうか。一説に子胥が作ったものではないかという。そもそも人の情というのは、安泰ならば作らず、窮すれば怨み、恨めば作るのであり、詩人が職を失って怨み、憂い嘆いて詩を作るようなものである。子胥は忠義を懐き、君が讒言に迷い社稷が傾くのを忍びなかった。命がなく今にも滅びそうな国で、長生を顧みず、切々として争い諫めたが、ついに聴かれなかった。憂いが至り患いが至り、怨恨して文を作った。過分なく偏りなく、本末を引き出した。己の過ちがないことを明らかにし、ついに力を出し尽くした。まことによく智を極めたが、身をもってこれに当たるに足りず、誉れを求めることを嫌い、そのために姓名をしるし、自分を指すに値するとしなかったのである。後人がこれを述べ説き、そこでしだいに中外篇ができたのである。
問うて曰く
「或いは経といい或いは伝といい、或いは内といい或いは外というのはどういうことか」
曰く「経は其の事を論じ、伝はその意を言い、外は一人が作ったものではなく、頗る万物を覆っている。或いは呉越のことだけではなく、同類を引いて意を託した。これを説く者は、夫子が詩・書を策定し経書や易を成したのを見て、また小芸が重複しているのを知った。また各々の弁士が述べるところは、越の優れた功績とは切り離せない。小さな記述は意味が通じず、ある程度の偏りがある。明らかに説く者が専らにしていなかったので、ゆえに選定は重複し、中外編が作られたのである」

 

 
越絶書

越絶巻第一

越絶荊平王内伝第二

昔、楚の平王の臣に伍子奢というものがあった。奢は王に罪を得て、まさに殺されようとすると、その二人の子は逃亡し、呉子尚は呉に奔り、伍子胥は鄭に奔った。王は奢を召してこれに問うて言った
「もし子を召せば、誰が来るか」
子奢は答えて言った
「王が私に問い、答えれば死を恐れ、答えなければ子の心を知らないということになります。尚の人となりは、仁にして智、これが来れば必ず入朝するでしょう。胥の人となりは勇にして智、来ても必ずや入朝しないでしょう。胥ままさに呉の国に走ろうとしています。王は必ず城門を早くに閉めて遅くに開きなさい、胥はまさに辺境に大憂をもたらそうとしています」
そこで王はすぐに使者を呉の子尚のところにつかわして言った
「お前の父に罪があり、お前が入朝すれば、これを免じる。入朝しなければ、これを殺す」
子胥はこれを聞き、呉の子尚のところに人をやって告げさせた
「私は楚の平王があなたを召したときいておりますが、あなたは決して入朝してはいけません。私はこう聞いております、入るものは窮し、出るものは仇に報いる。入るものはみな死に、これは智ではありません。死ねば父の敵に報いることはできず、勇ではありません」
子尚は答えて言った
「入れば父の死を免ぜられ、入らなければ仁ではない。自分の死をおしみ、父の望みを絶つのは、賢士のすることではない。お前とは考えが違い、謀も合わない。おまえはそこにいるといい、私は入朝することをもとめる」
楚の平王はまた使者を鄭につかわし子胥を召して言った
「お前が入朝すれば、父の死を免じる。入朝しなければ、これを殺す」
子胥は鎧を身につけ弓を引き絞り、出でて使者に会い、告げて言った 「鎧を身につけた士は、もとより拝礼をしない。使者は告げてほしい、『王は奢を無罪とし、赦してこれを待遇せよ、この子がまたどうして行くだろうか』と」 使者は還って楚の平王に告げ、王は子胥が入朝しないことを知り、子奢とともに子尚を殺した。 子胥はこれをきき、すなわち横嶺より大山に登り、北方の斉、晋を望んで、舎人に言った
「去ろう、この国は堂々として、山河を帯び、その民は多くゆたかである」
ここにおいて南方の呉に奔った。
江のほとりに至り、漁師に会い、言った
「来て、私を渡せ」
漁師はその常人ではないことに気づき、行ってこれを渡そうとしたが、人に知られるのを恐れ、歌ってこれを行き過ぎて、言った
「日は明らかにかがやき、すすんでいく、あなたと葦の岸辺で会いましょう」
子胥はそこで漁師にしたがって葦の岸辺に行った。日が落ちると、漁師はまた歌い往き、言った
「心中で計画なさい、あなたは河を渡れます、どうして出てこないのですか」
船に至ってすぐに乗り、船に入って身を伏せた。江の半ばで、漁師を仰ぎ見て言った
「あなたの名前はなんというのか。還ったら、あなたの厚い徳に報いることができよう」
漁師は言った
「楚国の賊を見逃すのが私です。楚国の仇に報いるのがあなたです。両者はしたしむものではありません、お互い名を聞いてどうしようというのですか」
子胥はそこで剣をほどいて、漁師に与えて言った
「私の先人の剣は、値は百金だ。どうかあなたに受け取ってほしい」
漁師は言った
「私は、楚の平王がこう命令したと聞いております。 『伍子胥を捕らえた者には、千金を与える』 今、私は楚平王の千金をほしいと思わないのに、百金の剣をどう思うでしょうか」
漁師は于斧の津を渡ると、その箱に入った飯を開け、壺にはいった飲みものを飲んで食事をし、言った
「すみやかに食べてお行きなさい、追っ手があなたに及ぶことがないように」
子胥は言った
「わかった」
子胥は食事をして去り、漁師を顧みて言った
「あなたの壺漿を隠して、露わにすることがないように」
漁師は言った
「わかりました」
子胥が行くと、すぐに船を覆し、匕首を手に取り自ら首をはね、江水の中に死に、漏洩しないことを明らかにした。
子胥が進んでいくと、溧陽の界隈で、一人の女子が綿を瀬水の中に打っているのに出会った。子胥は言った
「食べ物をもらえないだろうか」
女子は言った
「わかりました」
すぐに食事の入った箱を開け、壺に入った飲み物を注いでこれに食べさせた。子胥は食事をおえて去ろうとし、女子に言った
「あなたの壺漿を隠して、露わにすることがないように」
女子は言った
「わかりました」
子胥は五歩行って、振り返ってみると、女子は自ら瀬水の中に投じて死んだ。
伍子胥は進んで行き、呉に至った。裸足になり髪を振り乱し、呉の市で乞食をした。三日すると、市の役人はこれを疑い、闔廬に言った
「市中に常人ではない者がいて、髪を振り乱し裸足になり、呉の市で三日乞食をしています」
闔廬は言った
「私が聞くところによれば、楚の平王がその臣伍子奢を殺したが、その罪はなく、その子の子胥は勇にして智、彼は必ず諸侯の国を経てその父の敵を討つことができる者である」
王はそこで子胥を召して入朝させ、呉王は階段を降りてこれをいたみ慰めて言った
「私はあなたが常人ではないことを知っている。どうしてこのように質素で困窮しているのか」
子胥は跪いて涙を流して言った
「私の父は無罪でありながら平王に殺され、あわせてその子尚も殺されましたが、子胥は逃れ去りました。ただ大王だけが骸骨を帰するものです、どうか大王はこれを哀れんで下さい」
呉王は言った
「わかった」
殿に上がってともに語ること三日三晩、語って重複するものはなかった。王はそこで国中に号令して言った
「貴賤や年齡にかかわらず、伍子胥の教えを聴かない者は、私のいうことを聴かないことと同様である。罪は死にあたり、許されない」
子胥は呉に居ること三年、大いにその衆の心をつかみ、闔廬はまさにこのために敵を討とうとした。子胥は言った
「なりません。私は、諸侯は匹夫のために軍隊を興したりはしないと聞いております」
ここにおいてやめた。その後、楚がまさに蔡を伐とうとすると、子胥はこれを闔廬に言って、子胥に蔡を救わせ、楚を伐たせた。十五回戦って、十五回勝った。 楚の平王はすでに死んでおり、子胥は兵士六千人を率いて、鞭を手に取り平王の墓にむち打ち、これを責めて言った
「昔、私の親は罪がなかったのに、あなたはこれを殺した。いまこうしてあなたに報復するのだ」
後に子昭王、臣司馬子其、令尹子西は帰国してともに謀った
「子胥が死なず、楚に入国もしないなら、いまだ安泰とはいえない。どうしたらいいだろうか。これにもとめて国をともにするにこしたことはないのではなかろうか」
昭王は使者をつかわし、呉にいる子胥に告げて言った
「昔、私の父はあなたの父を殺したが、その罪はなかった。私はなお年若く、いまだよくわかっていなかった。いまあなたは私に報復しようとしていること特に甚だしいが、私はまたあえてあなたを恨んではいない。今あなたはどうして故の墳墓の丘塚に帰ってこないのか。我が国は小さいが、あなたとともにこれをたもとう。民は少ないが、あなたとともにこれを使おう」
子胥は言った
「これをもって名をなせば、名は明らかになる。これをもって利となせば、利は多くなる。先に父の敵に報い、後にその利を求めるのは、賢者のすることではない。父がすでに死に、子がその禄を食むのは、父の義ではない」
使者はついに還って、楚昭王に報告した
「子胥が楚に入国しないのは明らかです」
越絶書

越絶書巻二

越絶外伝記呉地伝第三

昔、呉の先君太伯は、周の世に、武王が太伯を呉に封じた。夫差に至るまで二十六世を数え、まさに千年になろうとした。闔廬の時、大いに覇し、呉越城を築いた。城中に小城が二つあった。胥山に政庁をうつした。のち二世にして夫差に至り、立って二十三年、越王句踐はこれを滅ぼした。
闔廬宮は高平里にある。 射台が二つあり、一つは華池昌里にあり、一つは安陽里にある。 南越宮は長楽里にあり、東は春申君の府に至る。秋冬は城中で政務を執り、春夏は姑胥之台で政務を執った。朝早く紐山で食事をし、昼は胥母に遊び、躯陂で弓を射て、遊台で馬を走らせ、走犬長洲で楽に興じた。呉王が大いに覇業をなしたのは、楚の昭王、孔子の時である。
呉の大城は周囲が四十七里二百一十歩二尺である。陸門が八つあり、その二つには楼がある。水門は八つある。南面は十里四十二歩五尺、西面は七里百十二歩三尺西面は七里百十二歩三尺、北面は八里二百二十六歩三尺、東面は十一里七十九歩一尺である。闔廬が造った。呉の郭は周囲が六十七里六十歩である。
呉小城は周囲が十二里である。その下部の広さは二丈七尺、高さは四丈七尺、門が三つあり、みな楼があり、その二つには水門が二つあり、そのうち一つには楼があり、一つには籬の通路がある。 東宮は周囲が一里二百七十歩である。路西宮には長秋があり、周囲は一里二十六歩である。秦の始皇帝十一年、宮を守る者が燕の巣を灯火で照らし、失火してこれを焼いた。
伍子胥城は、周囲が九里二百七十歩である。小城の東西は武里にしたがい、南は小城の北に従う(欠落?) 邑中の道は、閶門から婁門に至るまでは九里七十歩、陸道の広さは二十三歩、平門から蛇門に至るまでは十里七十五歩、陸道の広さは三十三歩、水道の広さは二十八歩である。
呉の古い陸道は、胥門を出て、土山に向かい、灌邑を渡り、高頸に向かい、猶山を過ぎ、太湖に向かい、北顧にしたがって西にむかい、陽下溪を渡り、歴山の南、龍尾の西の大決を過ぎ、安湖に通じる。
呉の古い水道は、平門を出て、郭池に上り、瀆に入り、巣湖を出て、歴地に上り、梅亭を過ぎ、楊湖に入り、漁浦を出て、大江に入り、広陵に向かう。 呉の古い道は由挙壁塞より、会夷を渡り、山陰に向かう。壁塞は、呉のものみの塞である。
居東城は闔廬が遊ぶところの城であり、県を去ること二十里である。柴碎亭から語児・就李に至るまで、呉が侵略して戦場となった。
百尺瀆は、江に向かい、呉はそれによって糧食を調達した。
千里廬虚は、闔廬が干将の剣を鋳造させたところである。欧冶の僮女が三百人いた。県を去ること二里、南は江に達する。
閶門の外の高景山の東桓石人は、古い名を石公といい、県を去ること二十里である。
閶門の外郭中の冢は、闔閭の氷室である。
闔閭冢は、閶門の外にあり、名を虎丘という。下池の広さは六十歩、水深は一丈五尺である。銅のひつぎが三重になっており、墳墓の池は六尺である。玉製の鴨が流れ、扁諸の剣が三千、方円の口三千、時耗・魚腸の剣がここにあった。十万人がこれを築いた。土を臨湖口から取った。葬ること三日にして白虎がその上にいたので、ゆえに号して虎丘というのである。
虎岡の北の莫格冢は、昔の賢者が世を避けた冢であり、県を去ること二十里である。
被奏冢とは、鄧大冢というのがこれにあたる。県を去ること四十里である。
闔閭子女冢は、閶門の外道の北にある。下方の池は広さが四十八歩、水深は二丈五尺である。池の広さは六十歩で、水深は一丈五寸である。隧道が廟路から南に出て姑胥門に通じる。合わせて周囲が六十里である。鶴を呉の市に舞わせ、生者を殺して葬送した。
餘杭城は、襄王の時、神女を葬ったところである。神には霊験が多かった。
巫門外の麋湖西城は、越宋王の城である。時に揺城王と周宋君は語招で戦い、周宋君を殺した。頭を貫かれて騎馬で帰り、武里に至って死亡し、武里南城に葬った。五月五日に死んだ。
巫門外の冢は、闔廬の氷室である。
巫門外の大冢は、呉王の客、斉の孫武の冢である。県を去ること十里。よく兵法をなした。
地門外の塘波洋中世子塘は、もとは王の世子が造成して農地をつくった。塘は県を去ること二十五里である。
洋中塘は、県を去ること二十六里である。
蛇門外の大丘は、名が明らかでない呉王の冢である。県を去ること十五里である。
築塘北山は、名が明らかでない呉王の冢である。県を去ること十五里である。
近門外の欐渓櫝中の連鄉大丘は、呉の古い神巫が葬られたところである。県を去ること十五里である。
婁門外の馬亭渓上の復城は、故の越王餘復君が治したところである。県を去ること八十里である。この時楚の考烈王が越に帰した。記載するところの襄王の後のことは、続けて述べることができなかった。その事は馬亭渓に書かれている。
婁門外の鴻城は、故の越の王城である。県を去ること百五十里である。
婁門外の雞陂墟は、故の呉王が鶏を飼育したところであり、李保にこれを養わせた。県を去ること二十里である。
胥門外には九曲路があり、闔廬が造営して姑胥の台に遊び、太湖中を望み、人民の様子をうかがった。県を去ること三十里である。
斉門は、闔廬が斉を伐って大いに勝ち、斉王の娘を取って人質とし、王女のために斉門を作り、水海虚に置いた。その台は車道の左、水海の右にある。県を去ること七十里である。斉女はその国を思って死に、虞西山に葬られた。
呉の北野の禺櫟東にある大きな焼き畑は、呉王の田地である。県を去ること八十里である。
呉の西野の鹿陂は、呉王の田地である。いま分かれて耦瀆・胥卑虚となっている。県を去ること二十里である。
呉の北野の胥主疁は、呉王の娘胥主の田地である。県を去ること八十里である。
麋湖城は、闔廬が鹿を置いたところである。県を去ること五十里である。
欐渓城は闔廬が船宮を置いたところである。闔廬が造った。
婁門外の力士は、闔廬が造り、外の越に備えた。 巫欐城は、闔廬が諸侯の遠客を置いた離城である。県を去ること十五里である。
由鍾の窮隆山は、昔赤松子が赤石脂を取ったところである。県を去ること二十里である。子胥が死ぬと、民はこれを思って祭った。
莋碓山は、もとは鶴阜山といい、禹が天下に遊び、太湖中の柯山を引っ張ってきてこれを鶴阜に置き、名を莋碓とあらためた。
放山は、莋碓山の南にある。莋碓山の下にあったので、郷の名を莋邑というのである。呉王はその名をにくみ、内郭中に、通陵郷と名付けた。
莋碓山の南に大石があり、古くは名を墜星といった。県を去ること二十里である。
撫侯山は、むかし闔廬が諸侯の墳墓を造ったところである。県を去ること二十里である。
呉の東徐亭は東西南北の渓流が通じていて、越荊王が置いたところであり、麋湖に通じている 。
馬安渓上の干城は、越干王の城である。県を去ること七十里である。
巫門外の冤山大冢は、むかしの越王王史の冢である。県を去ること二十里である。
揺城は、呉の王子の居たところであり、後に越の揺王がここにいた。稲田が三百頃あり、在邑の東南にあり、土地は肥沃で、水はすぐれている。県を去ること五十里である。
胥女大冢は、呉王の名が詳しくわからない冢である。県を去ること四十五里である。
蒲姑大冢は、呉王の名が詳しくわからない冢である。県を去ること三十里である。
石城は、呉王闔廬が美人を置いた離城である。県を去ること七十里である。
江に通じる南陵は、揺越が開鑿したところである。これにより上舍君を伐った。県を去ること五十里である。婁東の十里坑は、むかしは名を長人坑といい、海から上がってきて通じていた。県を去ること十里である。
海塩県は、はじめは武原郷といった。
婁北の武城は、闔廬が外越をうかがったところである。県を去ること三十里。今は郷となっている。
宿甲は、呉が兵を宿泊させて外越をうかがったところである。県を去ること百里、その東に大冢があり、揺王の冢である。
烏程・餘杭・黝・歙・無湖・石城県以南は、皆むかしの大越の徙民である。秦始皇帝がこれを徙したことを石碑に刻した。
烏傷県の常山は、昔の人が薬を採ったところである。高く、かつ神妙である。
斉郷は、周囲が十里二百一十歩、その城は六里三十歩、屏の高さは一丈二尺、百七十歩、竹格門が三つあり、そのうち二つには建物がある。
虞山は、巫咸の主神地である。虞はむかしから神出奇怪である。県を去ること百五里である。
母陵道は、陽朔三年に、太守の周君が語昭に造った陵道である。郭の周囲は十里百一十歩、屏の高さは一丈二尺である。陵には門が四つあり、皆建物がついている。水門が二つある。
無錫城は、周囲が二里十九歩、高さが二丈七尺、門が一つ、楼が四つある。その城郭の周囲は十一里百二十八歩、屏は一丈七尺、門にはみな建物がある。
無錫歴山は、春申君のとき盛んに牛を祀り、無錫塘を造った。呉を去ること百二十里である。
無錫湖は、春申君が治水して陂をつくり、語昭瀆を開鑿して東の大きな水田に至った。田の名は胥卑という。胥卑の下を開鑿して南の大湖に注ぎ、西野にそそいだ。県を去ること三十五里である。
無錫の西の龍尾陵道は、春申君が初めて呉に封じられたとき造営したものである。無錫県に属し、呉の北野の胥主疁に向かう。
曲阿は、むかし雲陽県といった。 毗陵はむかし延陵といい、呉季子がいたところである。
毗陵県の南城は、むかしの淹君の地である。東南の大冢は、淹君の子女の冢である。県を去ること十八里、呉が葬ったところである。
毗陵の上湖中冢は、延陵の季子の冢である。県を去ること七十里。上湖は上洲に通じている。
季子冢は古い名は延陵墟といった。
蒸山の南面の夏駕大冢は、名がはっきりしない越王の冢である。県を去ること三十五里である。
秦餘杭山は、越王が呉王夫差を棲ませたところである。県を去ること五十里。山には湖水があり、太湖に近い。
夫差冢は、猶亭西の卑猶の上にある。越王は兵士にもっこ一つぶんの土でこれを葬らせた。太湖に近い。県を去ること十七里である。
三台は、太宰嚭・逢同の妻子が死んだところである。県を去ること十七里である。
太湖は、周囲が三万六千頃である。そのうち千頃は烏程である。県を去ること五十里である。
無錫湖は、周囲が一万五千頃である。そのうち一千三頃は毗陵上湖である。県を去ること五十里である。またの名を射貴湖という。
尸湖は、周囲が二千二百頃、県を去ること百七十里である。
小湖は、周囲が一千三百二十頃,県を去ること百里である。
耆湖は、周囲が六万五千頃、県を去ること百二十里である。
乗湖は、周囲が五百頃、県を去ること五里である。
猶湖は、周囲が三百二十頃、県を去ること十七里である。
語昭湖は、周囲が二百八十頃、県を去ること五十里である。
作湖は、周囲が百八十頃、たくさんの魚や物がとれる。県を去ること五十五里である。
昆湖は、周囲が七十六頃一畝、県を去ること一百七十五里である。またの名を隠湖という。
湖王湖、要調査。
丹湖、要調査。
呉はむかし江海を棠浦の東にまつり、江南に四角い堤防を作り、潮汐の水利をなした。古くは太伯が呉に君となったときから、闔廬の時に絶えた。
胥女南の小蜀山は、春申君の客の衛の公子の冢である。県を去ること三十五里である。
白石山は、むかし胥女山といい、春申君がはじめて呉に封じられたときに通り過ぎ、名をあらためて白石とした。県を去ること四十里である。
今の太守の館は、春申君が作ったものである。後殿屋を桃夏宮という。
今の宮殿は、春申君の子、仮君の宮殿である。前殿屋は蓋し土地は東西十七丈五尺、南北十五丈七尺である。建物の高さは四丈、といの高さは一丈八尺である。殿屋は蓋し地は東西に十五丈、南北は十丈二尺七寸である。といの高さは一丈二尺である。倉庫の東向きの建 物は南北に四十丈八尺であり、上下の戸は各々二つある。南向きの建物は東西に六十四丈四尺であり、上戸が四つ、下戸が三つある。西向きの建物は南北が四十二丈九尺、上戸が三つ、下戸が二つある。全部で百四十九丈一尺である。ひさしの高さは五丈二尺、といの高さは二丈九尺である。周囲は一里二百四十一歩である。春申君が建造した。
呉両倉は、春申君が建造した。西倉の名は均輸といい、東倉は周囲一里八歩である。後に焼けた。更始五年、太守李君が東倉を修理して属県の宿舎にしようとしたが、成功しなかった。
呉市は、春申君が作った。二つの城に門をかけ市となし、湖里にあった。
呉の諸々の里の大閈は、春申君が建造した。
呉の獄庭は、周囲が三里、春申君の時に造られた。
土山は、春申君の時貴人の冢をつくった。県を去ること十六里である。 楚門は、春申君が建造した。楚人がこれに従ったので、楚門としたのである。
路丘大冢は、春申君の客の冢である。碑は立てず、道がここで終わっている。県を去ること十里である。
春申君は、楚の考烈王の相である。烈王が死ぬと、幽王が立ち、春申君を呉に封じた。三年、幽王は春申君を召して楚の令尹とし、春申君は自らその子を仮君として呉を治めさせた。十一年、幽王は假君と春申君を召してともにこれを殺した。二君が呉を治めることおよそ十四年であった。後十六年、秦の始皇帝が楚を併合すると、百越は叛いて去り、大越の名をあらためて山陰とした。春申君は姓を黄、名を歇といった。
巫門外の罘罳は、春申君が呉を去ると、仮君が彼をしのんだところである。県を去ること二十三里である。
寿春東の鳧陵亢は、むかしの諸侯王が葬られたところである。楚の威王が越王無疆と並んでいる。威王の後は烈王で、子が幽王で、後が懐王である。懐王の子は頃襄王である。秦の始皇帝はこれを滅ぼした。秦の始皇帝は道陵の南に建造したので陵道が通じて由拳塞に至った。同じく馬塘より起こり、水を満たして陂をつくり、陵水道を治水し銭唐に至り、越の地を通り、浙江に通じた。秦の始皇帝は会稽の謫戍の卒を徴発して、陵高以南の陵道を修築して通じさせ,県を互いにつながらせた。
秦始皇帝の三十七年、諸侯の郡縣の城を壊した。
太守府の大殿は、秦始皇帝の刻石をしたとき建てたところである。更始元年に至り、太守許の時失火した。六年十二月乙卯に、官池を開鑿し、東西は十五丈七尺、南北は三十丈である。
漢の高帝は功のあった者を封じ,劉賈は荊王となり、あわせて呉を有した。賈は呉市西城を築き、名付けて定錯城といった。小城と連なり、北は平門に至り、丁將軍がこれを修築した。十一年、淮南王が叛き、劉賈を殺した。後十年、高皇帝は更えて兄の子濞を封じて呉王とし、広陵に統治し、并せて呉を有した。立って二十一年、東方に渡って呉に行き、十日で引き返した。立って四十二年、反乱した。西は陳留県に至り、引き返して丹陽に奔り、東欧に従った。越王の弟の夷烏将軍は濞を殺した。東欧王は彭沢王となり、ここに夷烏将軍は平都王となった。濞の父の字は仲であった。
匠門外の信士里の東の広い平地は、呉王濞の時の宗廟である。太公・高祖が西にあり、孝文帝が東にある。県を去ること五里である。永光四年、孝元帝の時に、貢大夫が請願してこれを廃止した。
桑里の東の現在の舍西は、むかし呉が牛・羊・豚・鶏を飼育していたところであり、名を牛宮といった。今は園となっている。 漢の文帝前九年、会稽が故の鄣郡を併合した。太守故の鄣に治し、都尉は山陰に治した。前十六年、太守は呉郡に治し都尉は銭唐に治した。
漢の孝景帝五年五月、会稽は漢に属した。漢に属したのは、初めて併せたということである。漢孝武帝の元封元年、陽都侯が帰服し、由鍾に置いた。由鍾は初めて立ち、県を去ること五十里であった。
漢の孝武帝の元封二年、故の鄣を丹陽郡とした。
天漢五年四月、銭唐浙江の巨石が見られず、七年に至って、巨石がまた現れた。
越王句踐は瑯邪に徙り、凡そ二百四十年、楚の考烈王が越を瑯邪に併せた。後四十余年、秦が楚を併せた。また四十年、漢が秦を併せた。今に至るまで二百四十二年である。句踐が瑯邪に徙ってから建武二十八年まで、凡そ五百六十七年である。
越絶書

越絶書巻三

越絶書巻三呉内伝第四

呉は何をもって人と称するのか。これを夷狄とするのである。中邦を憂えるのはいかにしてか。伍子胥の父は楚に誅殺せられ、子胥は弓をつがえ、自ら闔閭に庇護を求めた。闔閭は言った
「才知が甚だしい、勇が甚だしい」
まさにこれのために仇に報いようとした。子胥は言った
「なりません。諸侯は匹夫のために仇に報いたりはしないものです。私はこう聞いております、君に事えるのは父に使えるようなものです。君の品行をそこない、父の仇に報いることはできません」
そこでやめた。蔡の昭公は南方の楚に朝し、子羊の皮衣を着ていると、囊瓦がこれを求めたが、昭公は与えなかった。そこで昭公を南郢に拘束し、三年経ってからこれを帰した。昭公は去って、河に至り、誓って言った
「天下で誰が楚を伐つことができるだろうか。私は先鋒になりたい」
楚はこれを聞いて、囊瓦に軍を興して蔡を伐たせた。昭公は子胥が呉にいると聞き、蔡を救うことを請うた。子胥はそこで闔廬に報せて言った
「蔡公は南方に朝して、子羊の皮衣を着ていました。囊瓦がこれを求めても、蔡公は与えなかったところ、蔡公を三年拘束し、然るのちこれを帰しました。
蔡公は河に至り、言いました『天下で誰が楚を伐つことができるだろうか。私は先鋒になりたい』楚はこれを聞き、囊瓦に軍を興させ蔡を伐たせました。蔡は罪はなく、楚は無道です。君がもし中国のことを憂いて思うところがあれば、いまならおできになります」
闔廬はそこで子胥に軍を興させ蔡を救って楚を伐たせた。楚王はすでに死に、子胥は兵士六千人を率いて、鞭を手にとって平王の墓にむち打ち、言った
「昔、わたしの父は無罪であったが、おまえはこれを殺した。今こうしておまえに報復するのだ」
君は君の室に舎り、大夫は大夫の室に舎り、蓋し楚王の母を娶るものがあった。
囊瓦とは何者か。楚の相である。郢とは何か?楚王の治するところである。呉師をどうして人と称するのか。呉は夷狄であるのに、中原の国を救った。人と称するのはこれを賤しんだのである。
越王句踐は呉王闔廬を伐とうとした。范蠡は諫めて言った
「なりません。私はこう聞いております、天貴きは満ちているのを守る。満ちているのを守るとは、陰陽、日月、星辰の綱紀を失わないことを言うのです。地貴は危うきを安らかにする。危うきを安らかにするとは、地に生まれ育つものが、丘陵でも平地でも、便宜を得ないものがないことを言うのです。人貴は事を節する、事を節するとは、王者以下、公卿大夫が陰陽に適合し、天下に和順することをいうのです。事が来ればこれに応じ、物が来ればこれを知り、天下にその忠信を尽くさざる物はなく、その政教に従う、これを節事といいます。節事は、この上なく大切なことです。天道が満ちて溢れず、盛んにして驕らないものであるとは、天が万物を生じ、天下を養うことを言うのです。虫のうごめき廻る様は、各々その性質によるのです。春に生じ夏に長じ、秋に収穫し冬に貯蔵し、その常を失いません。故に天道は満ちて溢れず、盛んにして驕 らずと言うのです。地道は施こして徳とせず、労してその功績を誇らないというのは、地が五穀を生じ、万物を養い、功が満ちて徳が広い。これが施して徳とせず、労してその功績を誇らないということです。天地の恵みは大にして功をほこったりしないことを言うのです。人道が四時に逆らわないとは、王者以下庶人に至るまで、みなまさに陰陽四時の変化に和するべきであり、これに従うものには福があり、これに逆らう者には禍があることを言います。故に人道は四時に逆らわずというのです。静かに心をつくして動きを見るとは、存亡吉凶のしるし、善悪の次第には、必ず順序があることを言います。天道が今だなされていないのに、先にこちらが客にはならないものです。 范蠡は、呉が伍子胥の教化に従い、天下はこれに従い、いまだ滅亡するような損失はないことを目の当たりにし、ゆえに天道が未だなされないのに先に客にはらないと言ったのです。客とはその国を去って、人の国に入ることを言います。地の兆しが今だ発せられないのに、先に衆を動かすことはないとは、王者以下、庶人に至るまで、暮春中夏のときでなければ、五穀を播き、土地の利を耕起することができないことをいい、国家も滅亡の損失が現れなければ伐つことができません。ゆえに地の兆しが今だ発せられないのに、先に衆を動かすことはないとは、このことをいうのです」
 呉人は就李に敗れた、呉の戦地である。敗れたとは、越が呉を伐ち、未だ戦わないうちに、呉の闔廬が卒し、敗れて去ったのである。卒したとは、闔廬の死である。天子は崩といい、諸侯は薨といい、大夫は卒といい、士は不祿という。闔廬は諸侯であるが、薨じたと言わないで卒したというのはどうしてか。このとき、上は明なる天子がなく、下は賢なる諸侯がなく、諸侯は武力を用いて互いに征伐し、強者が君となった。南夷は北狄と争い、中国が絶えはしないが一本の線でつながっているだけのようであった。臣は君を弑逆し、子は父を弑逆し、天下は禁止することができなかっ た。そこで孔子は春秋を作り、魯を王としようとした。故に諸侯の死はみな卒といい、薨とはいわない。魯の謚を避けたのである。
晋の公子重耳の時、天子微弱で諸侯は武力をもちいて互いに征伐し、強者が君となった。文公は侵暴され、国を失い翟に奔った。三月で国政に返り咲くことができ、賢者を敬い法を明らかにし、諸侯を率いて天子に朝し、そこで諸侯はみな従い、天子はそこで尊重された。これがいわゆる晋の公子重耳が国に帰って天下を定めたということである。
斉の公子小白もまた斉国に帰って天下をただした者である。斉の大夫無知はその君の諸児を殺し、その子二人は出奔した。公子糾は魯に奔った。魯は公子糾の母の国であった。小白は莒に奔った。莒は小白の母の国であった。斉の大臣鮑叔牙は仇に報復し、無知を殺し、故に軍隊を興して魯に行き、公子糾を招聘して君としようとしたが魯の荘公は与えなかった。荘公は魯の君であり、言った 「斉に国を挙げて魯に仕えさせれば、私はあなたたちの君を与えよう。国を挙げて魯に使えないならば、私はあなた方に君を与えない」 そこで鮑叔牙は軍隊を還して莒に行き、小白を迎えて立てて斉君とした。小白は国に帰り、管仲を用い、諸侯を集め合わせ、天下を統一し、故に桓公となった。このことをいうのである。
堯には慈しまないという評判があった。堯の太子丹朱は驕り高ぶり、禽獣の心を懐いていたので、堯は用いることができないことを知り、丹朱を退けて天下を舜に伝えた。これを堯には慈しまないという評判があったというのである。
舜には不孝の行いがあった。舜には父親と継母があり、母は常に舜を殺そうとし、舜は去って歴山で耕作した。三年して大いに実り、自分は外で自活することができたが、父母は皆飢えていた。舜の父は頑迷で、母はかまびすしく、兄は狂っており、弟は傲慢であった。舜は彼らの心を変え、志を易えようとした。舜は瞽瞍の子であり、瞽瞍が舜を殺そうとしたが、いまだ殺すことはできなかった。呼びつけてこれを使おうとすると、いまだかつて側にいないことはなかった。これを舜には不孝の行があったというのである。舜がその仇を用いて天下に王となったとは舜の父瞽瞍はその後妻を用い、常に舜を殺そうとしたが、舜はそのために孝行を忘れなかったので、天下はこれを称えたことを言うのである。堯はその賢なることを聞き、ついに天下をこれに伝えた。これを天下に王となったとするのである。仇とは舜の後母である。
桓公がその賊を召して諸侯に覇したというのは、管仲が桓公の兄の公子糾の臣となり、糾が桓公と国を争うと、管仲は弓を張って桓公を射て、その帯鉤に当たった。桓公はこれを受け、その大罪を赦し、立てて斉の相とした。天下に向かい服して義を慕わないものはなかった。これをその賊を召して諸侯に覇したというのである。
夏啟は犠牲の牛を益に献じた。啟は禹の子である。益は禹と舜の臣となり、舜が禹に國を伝えると、益を推薦してこれを百里の地に封じた。禹が崩ずると、啟が立った。王事を悟り知り、君臣の義に通じた。益が死んで後、啟は歲ごとによく犠牲を捧げこれを祀った。経に曰く、「夏啟は善く益に犠牲を捧げた」とは、このことを言うのである。
湯は牛を荊の之伯に献じた。之伯は、荊州の君である。湯は仁義を行い、鬼神を敬い、天下は皆一心にこれに帰した。この時、荊伯はいまだ従わなかった。湯はそこで犠牲の牛を飾ってこれにつかえた。荊伯はそこで恥じ入って言った
「聖人につかえる礼を失していた」
そこでその誠心を委ねた。これを湯が牛を荊の之伯に献じたというのである。
越王句踐は国に帰って六年、ことごとく多くの士民を得て、呉を伐とうとした。そこでこれに維甲させた。維甲とは、鎧の連なりが切れたものを治すことである。矛に赤い鶏の羽根をつけて修理し、越人はこれを「人鎩」といった。二つをを連結した船で、越人は江に往く。須慮を治すとは、越人は船を「須慮」と言うのである。亟怒紛紛とは、怒りの様子であり、怒りがはなはだしい。士が高丈を撃つとは、士を跳躍させ勇ませるのである。夷で習練した。夷とは海のことである。萊に宿った。萊とは、野のことである。単に至った。単とは垣のことである。
舜の時、鯀は令に従わなかった。堯は帝嚳の後の混乱に遭い、洪水が天まで広がり、堯は鯀にこれを治めさせたが、九年たっても治めることができなかった。堯は七十年にして舜を得て、舜は人の情を明らかに知り、地形を審らかにし、鯀が治水することができないことを知り、しばしば諫めたが去らず、堯はこれを羽山に殺した。これを舜の時、鯀が令に従わなかったというのである。
殷の湯王は夏の桀王が無道で、天下に道をそこなうのに遭い、そこで湯は伊尹を用い、非常にすぐれた知徳の心を行い、桀王の無道虐行を見て、故に夏を伐って桀を放逐し、王道は盛んに進んだ。乱をあらため困弊を補い、風俗を変え、制を改めて作新し、海內はみな朝貢し、天下は教えをうけた。湯は文治をもって聖人であったとは、このことをいうのである。
王がつとめをもって争ったというのは、紂が天下を治め、仁義の道をそこない驕り怠け、国政を顧みなかった。文王は百里の地にいて、紂が無道で、誅殺してお きてがなく、賞賜が不当であるのを見た。文王は聖をもって紂につかえ、天下は皆ことごとくその賢聖であることを知り、これに従った。これを文王はつとめをもって争ったというのである。紂は悪刑をもって争い、文王は至聖を行い仁義をもって争ったとはこのことを言うのである。
武王は礼をもって信を得た。文王が死んで九年、天下の八百の諸侯は、皆同じ日に孟津のほとりに集まった。帰って二年、紂は比干を賊殺し、箕子を捕らえ、微子はこれを去った。妊婦の腹を割き、朝に水を渡る者の脚を切った。武王は賢臣がすでにいなくなったのを見て、そこで天下に朝し、師を興して紂を伐ち、これを殺した。武王はいまだ車を下りないうちに、比干の墓にもりつちし、太倉の粟を発し、以て天下を救い、微子を宋に封じた。これを武王が礼をもって信を得たというのである。
周公は立派な徳をもってした。武王は周公を封じ、成王につきそい助けさせた。成王は若く、周公はこれに臣としてつかえた。このとき、賞賜を功のないものには加えず、刑罰を罪のないものには加えなかった。天下の家は足り人は足り、粟や麦はよくしげった。人を使わすのに時期に合わせ、これに説くのに礼をもってした。上は天地に従い、恩沢は夷狄に及んだ。ここにおいて、管叔・蔡叔は周公をよく知らずにこれを成王に讒言した。周公は位を辞して出奔し、周辺を巡狩すること一年であった。天は風雨をあらし、日夜休まず、五穀は生じず、樹木はことごとく倒れた。成王は大いに恐れ、そこで金の帯で封緘した箱を開け、周公の文書を見て、周公に盛徳があることを知った。王はそこで夜ごとに周公を迎えに行き、涙を流して 行った。周公は国に帰り、天が応じた福があった。五穀は皆生じ、樹木は皆生じ、天下は皆実った。これが周公の盛徳である。